はじめに
広島平和クリニックの長谷川俊輔さんよりバトンを頂いた兵庫県立がんセンターの重永裕です。
長谷川さんとはSigna甲子園でお会いし、その後同じくSigna甲子園で出会った上尾中央総合病院の石川応樹(まさき)さんと定期的にWeb飲みで交友を深めさせて頂いています。
私は神戸総合医療専門学校を2007年卒業し、兵庫県立姫路循環器病センターでアンギオ2年、核医学3年、MRI2年を経て、現在の兵庫県立がんセンターで8年間MRIに専従しています。
気付けば技師歴15年、MRI歴10年が経ちました。MRIの賞レースが大好きです。昨年度に大阪大学大学院後保健学専攻後期課程を社会人大学院生として修了し、次の目標に向けて邁進中です。
診療放射線技師になった経緯
高校時代に特に夢などを持っていなかった私は文系より理数系が得意という理由だけで、自宅から通える範囲で当時の成績で合格出来た甲南大学理学部化学科に入学。
大学時代は趣味のビリヤードに没頭した記憶しかありません。
単位を落とすことはありませんでしたが、特に化学科らしい技術を身に着けることもなく卒業が決まり、就職活動となりました。
親からもらった就職活動へのアドバイスは「営業職は口先だけで何とかなるぞ。自営業なんかより責任は少ないしな。」しか記憶していません。
実際、私の父親は仮病を使ってドラクエをしていたり、営業外回り中に『釣りバカ日誌』を観に行ったりしていた記憶があります。
当時は就職氷河期でしたが、幸いにも東証1部上場化学系メーカーに採用され、広島営業所に営業職として配属されることになりました。
「人生順調」そう思っていました。実際に働くまでは…。
携帯電話にGPSが普及し、どこにいるかを会社が常に把握している。
仮病で休みどころかサービス残業ばかり。
また、営業は1+1が2でない世界。私は根っからの理系気質であり、客が2以外の事を言うとストレスがハンパではありません。
そして何より辛かったことが、月曜日の朝の会議です。
パワハラ気質の中四国営業統括部長に、先週の実績報告と今週の行動予定を伝える会議です。
サザエさんが放送される時間(=日曜18時30分)以降になると、如何に会議を乗り切るかという事だけ考えるようになっていました。
「父よ。営業のどこが気楽なんだ!?」
そんなこんなですぐに限界が来て、次の仕事を考えなければならなくなりましたが、「営業はどこも同じだろうな」と考えた私は、手に技術を身に着ける事を目指すことになります。
そこで、
「でも、どんな資格が良いんだろうか?…そういえば、pool bar(ビリヤード台を置いているバー)でバイトしてた時、お客さんが毎日楽しそうに遊びに来てたな。連れてる女の子はしょっちゅう違ったし。確か神戸R病院で放射線技師とかいうのをしてるって言ってたな。よし連絡してみよ!」
これが私の診療放射線技師になった経緯です(苦笑)。
賞レースから博士号取得
『毎日定時で仕事終わって、看護師さん達と楽しく飲みに行き、趣味のビリヤードに没頭する。』
そんな不純な動機で診療放射線技師になった私でしたが、この仕事の奥深さ・面白さにどっぷりハマって行く事になります。
MRIに配属され1年位が経った頃、循環器内科のK医師がUtah大学の左心房遅延造影の論文を持ってきて、
「これをうちでもやって欲しいんだけど。」
っと要望してきました。
詳しい経緯は忘れてしまいましたが、当時の責任者が可否の検討を私に一任してくれたのです。
必死に英語の論文を読み、Philipsのコールセンターに助けて貰いながら、パラメーターを組んだことを覚えています。
そして3D構築し提出した画像が図1です。
図1上段が左心房の造影MRAと遅延造影のFusion画像、下段がアブレーション部位の記録です。
アブレーション部位に一致した遅延造影がしっかりと表現されています。
この画像を見たK医師が嬉々としてMRI検査室に現れ、絶賛して頂いた事を今でも鮮明に憶えています。
そんなに喜んで頂けるような凄い画像ならと、AZE展に応募したのが私の初めての賞レースです。
結果はなんと最優秀賞。
勉強も運動も芸術センスも全て普通だった私にとって人生初のまともな表彰状でした(図2)。
それからの私は賞レースへのネタ探しのために、臨床医の『出来たらいいな』を集めては検討を行っていきました。
ある時、先輩方から「賞レースで終わるのは勿体ない。学会発表して論文にするべき。どうせ書くなら英語で。」との助言があり、英語論文の執筆にも取り組むようになっていきます。
ネタ探し→賞レース→学会発表→英語論文化を繰り返していたら、いつの間にか英語論文がある程度読めるようになり、専門学校卒でも個人審査で大学院後期課程の受験資格が得られる位の実績が蓄積されていました。
ならばと、大阪大学大学院を受験し無事合格。
大学院での研究テーマは頭頚部領域のMRIであり、これもGyro cup2018でブロンズアワードを受賞したネタです。
つまり私の放射線技師としてのキャリアは賞レース(AZE展・Gyro cup・Signa甲子園・日循コメディカル賞)が作ったと言っても過言ではありません(図3)。
賞レースでの出会い
賞レースでの目的は評価してもらう事だけではありません。
賞レースでは同じ志を持つ仲間たちに出会う事が出来ます。
Signa甲子園には3年連続で本戦に出場させて頂きましたが、残念ながら一度も受賞には至りませんでした。
しかし、そこでの出会いは掛け替えのないものとなりました(図4)。
気付くと全国に仲間がたくさん出来ており、その仲間たちとのMRIをツマミにお酒飲むことが現在の楽しみの一つとなっています。
おわりに
第50回日本放射線技術学会秋季学術大会で『(仮)賞レースのその先へ』というセッションが開催されるようです。
AZE展で知り合った盟友である望月純二さんが発表されるようなので今から楽しみです。
是非、皆さんも参加して頂いて賞レースの世界に飛び込んでみてはいかがでしょうか?新たな世界が広がるかも知れません。
次回のペンリレーは
近畿大学奈良病院の三阪知史さんにバトンをお渡し致します。
三阪さんは大学院の先輩であり、卒業に向けてのアドバイスをいっぱい頂いた恩人です。
MRIだけでなくCTやDeep learningまで見識の広い方です。
では、三阪さん宜しくお願い致します。
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